「CLAY」と青鬼さん
こんにちは、法人満足室の義夫です。
今回は、世間の評価と自分にとっての価値について書いてみたいと思います。
学生の頃とった英語の授業の題材がJAMES JOYCEの小説「CLAY」でした。
世界的な文学作品であり、巻末の解説によればこの小説を「芸術の中の芸術」
という批評家もいるそうです。
▼卒業後ん十年、今でもとってある教科書です。
「CLAY」は気立てのいい朗らかなご婦人「Maraia」さんのクリスマスの一日を描写して
います。
ちょっと長いですが、解説文を引用していきます。
「Maraiaは自己を抑制して、常に控えめで、目立たない生活をし、相手の意見におとなしくしたがって、なんの不満も抵抗も示さない。さらに'(She) thought how much better it was
to be independent’という独白が示す通り、彼女は他人の重荷にならないようにつとめ、逆に小まめに他人の世話をやき、無視無欲に行動する。」
どうです!?普通に好ましい人ですよね。宮沢賢治の「雨にも負けず」に通じるような。
でも解説文は続けます。
「このような人は隣人から重んじられることがなく、何かの役にたてば利用されるが、その価値がなくなれば、ぼろのように捨てられる。たとえば、Maraiaは洗濯屋の内で’veritable peace-maker’と呼ばれても威厳ある調整者とは思われない。」・・・
単位はとりましたが、役に立つ間だけ利用されてそれが終わればお払い箱がテーマの小説を
読む授業は気が滅入りました。
翻って、自分にとっては、児童文学ではあるけれど、「泣いた赤鬼」の方が意味のある
物語です。
※「泣いた赤鬼」を知らない人はいないと思いますが、念のため Wikipediaです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A3%E3%81%84%E3%81%9F%E8%B5%A4%E9%AC%BC
人間と仲良くしたい赤鬼さんのために青鬼さんが悪役として一芝居打つのですが、青鬼さんは、その結果をちゃんと理解しています。自分の計画が成功した後、幸せに過ごす赤鬼さんのそばには自分のいる場所がないことを。
でも、大切に思う友達のために、未来の赤鬼さんの幸せのために悪役を買って出るのです。そして去るのです、幸せになった赤鬼さんの姿を見ることなく。
もしかしたら、青鬼さんの行動は短絡的であり、別な可能性があったのかもしれません。
でも自分は利用するか、されるかといった所から遠くにある青鬼さんが登場する物語のほうが意味があり、そして読むたびに涙してしまうのです。
ま、年取って涙腺が緩くなっているせいもありますが・・・